マイアミビーチ市の歴史

20世紀の初め、藤沢市と姉妹都市になる43年前に意外にもマイアミビーチの開発・発展に神奈川県出身の日本人が深く関わっていたのです。ここでは20世紀初めまでのマイアミビーチについてご紹介します。

マイアミビーチは細い無人島だった
人口は約9万人(ただし、シーズン中にセカンドホームとしてくる人口は含まない)。南端から86ストリートまでがマイアミビーチ市。面積にして市に属する16の小島も含めて5000エーカー、つまり、約612万坪、20.24平方キロメートル。面積にすると藤沢市の約3分の1。テケスタ族の埋葬地だったと思われる塚がサーフサイドあたりで発見されているので、白人がフロリダにやってくる前には、原住民が住んでいなかったとは言えない。マングローブと藪に覆われた細長い名無しの無人島だった。人影と言えば、クロコダイル鰐がうようよしていたマングローブ・ジャングルに遊びにくる好奇心の強い人たちか難破した船から逃れてきた人くらいだった。この無人島にも小屋が一つ、避難小屋があり、ビスケイン・ハウスと呼ばれたこの小屋には1845年以降、管理人と称する人がいた。

無人島からココナッツ農園へ
フロリダ州が合衆国の一員となった1845年から未開発土地開発奨励が始まった。未開発の土地を民間人に安く払い下げ、開発を進めようというものだった。南フロリダ全体が未開発でしかも湿地帯のジャングル。それでも多くの人が一攫千金を夢見て、安く土地を買っていった。
1881年、ヘンリー・ラム(当時61歳)がサウスビーチ一帯を1エーカー(1240坪)35セントで買い上げた。ラムは1868年息子チャールズとキーウエストからヨットでビスケイン湾の東側を探検した際に発見した三本の椰子の木にアイディアを得てココナッツ農園を考えた。ペンシルベニアで農業を営んでいたヘンリー・ラムの発想だった。その話を聞きつけた人たちもそれに続いた。エズラ・オズボーンとエルネーサン・フィールドの二人は、60人もの投資者を募りラムの土地の北約65マイル(104キロ)分を買った。投資者はニュージャージーのクエーカー教徒達だった。マングローブのジャングルを取り除き、農園にするために30人弱を雇い、ニュージャージーからキーウエスト経由で連れてきた。ココナッツはトリニダから輸入した。キーウエストで船をチャーターしてトリニダに行き、椰子の実を10万個買い、キーウエストの税関を通った後、船底の浅い帆船スクーナーに積み替えて持ってきた。1年間に合計30万個の椰子の実を輸入し、10万個はラムの農園で、その他はオズボーンとフィールドの農園に植えた。

失敗に終わったココナッツ農園
マングローブ、藪を掘り起こし、取り除く仕事は容易ではなかった。作業員はクロコダイル鰐、蚊、野生動物に悩まされた。その上、いままでは海麦を食餌にしていた野ウサギが椰子の芽を好んで食べるようになり、椰子は木に成長する機会さえなかった。野ウサギ退治に毒付のとうもろこしをばら撒いたが、とうもろこしなど見たことがなかった野ウサギは見向きもしなかった。

アボカド・マンゴ農園に切り替える
3年後、オズボーンとフィールドが経済的に行き詰まった時に投資をしてくれたのがジョン・コリンズだった。海岸づたいにある広大な土地に興味を持ったのだった。コリンズもクエーカー教徒で農業に従事していた。南フロリダに始めて足を踏み入れたのはヘンリー・フラグラーの鉄道がマイアミに通じた1896年。ココナッツ農園の失敗を目のあたりにしたコリンズは、アリゲーター梨と呼ばれていたアボカドとマンゴの農園を始める計画を立て準備にかからせた。が、オズボーン・フィールド側と意見が合わなかったため、1907年に現在の14ストリート当たりから73ストリートまでをフィールドから買収し3000本のアボカドを植えた。
アボカドとマンゴの果樹の間にはポテトと豆が植えられたが、風が強すぎ、アボカドもマンゴも満足に育たなかった。コリンズは防風のためにオーストラリアン・パインと呼ばれる松を植えさせた。アボカド栽培がうまくいきそうになった1911年、コリンズはアボカドの出荷がし易いように運河を掘りだしたがお金が底をつき、ニュージャージーの息子たちに助けを求めた。やって来た息子たちは、全く違った見地からこの土地の将来性を判断し、農園ではなく分譲して売れる不動産としての価値を多いに認めたのだった。息子達はこの土地に第二のアトランティック・シティが出来る夢を抱いた。
マイアミと島を車で渡れるように橋をかけることが夢実現に絶対必要であると考えた。 農業が主だった父親も運河を掘る資金を出してくれることを条件に橋の建設を約束した。こうして出来た会社が、「マイアミビーチ改良会社」。 史上初めて、「マイアミビーチ」という名前が現れたのだった。

観光地マイアミビーチの兆し
鉄道がマイアミまで通じた年からマイアミ側は避寒地として栄え始め、ホテル建設も進んでいた。マイアミの銀行の頭取をしていたルマス兄弟は、ラムとウィルソンが持っていたサウスビーチ一帯580エーカー(72万坪)を8万ドルで買い、マイアミからビーチへ遊びに来る人のためのフェリーサービスを始めたほか、フェリーからビーチへお客が歩いて行きやすいようにボードウォークを建設し、ビーチ近くにシャワーが浴びられる施設も作った。
マイマミから島に橋をかけることに反対したのはこのフェリー会社だった。車で行けるようになればフェリーの商売は成り立たなくなるからである。コリンズが橋建設許可をとった途端に不動産屋が動き始めた。ルマス兄弟も宣伝を始め、コリンズも土地の一部を切り売りした。世界で一番長い木の橋「コリンズ・ブリッジ」はマイアミ側から建設が始まった。1.6キロにつき5万ドルかかったこのプロジェクトのためにコリンズはルマス兄弟の銀行から融資を受けたが、あと800メートルを残してお金が底をつき、橋はブル島(後にベル島(Belle Isle)に呼び名変更:マイアミ市からベネチアン・コーズウェイで一番東側)止まりとなった。ブル島止まりのこの橋は、全長2.5マイル(約4キロ)1912年6月12日に開通した。通行料金は、一人乗りの車は15セント、二人乗りは20セント、観光バスは5ドルから15ドルだった。

農園から避寒地へ
この頃マイアミにやって来たのがカール・フィッシャー。フィッシャーは自転車修理屋から自動車販売に転身し、ヘッドライトを発明し、製造販売した人である。ユニオン・カーバイト社に9百万ドルでヘッドライトの会社を売ったフィッシャーは、その冬にコリンズに出会い、橋完成のために必要な5万ドルと引き換えにコリンズの土地をもらった。
フィッシャーは買収した地域を「オルトン・ビーチ」と呼んだ。(「シカゴ・ノースウエスタン・アンド・オルトン鉄道会社」から思いついた名前。)ルマス兄弟にも15万ドルを融資し、サウスビーチの土地開発を急がせた。 当時のサウスビーチはまだマングローブ・ジャングルだったが、埋め立てもし、1912年から「バケーション・ホーム」と宣伝、土地分譲販売を始めた。コリンズも時を同じく、農園の一部を整備し、分譲して売り始めている。

埋め立て・不動産ブーム・・・一石二鳥のアイデア
フィッシャーは裕福な避寒客を対象に考えていた。ビスケイン湾の水深を深め、ボートやヨットが通れるようにし、冬の邸宅にはボートやヨットを横付けできるようにしなければいけないとも考えた。そこで一石二鳥の案、つまり、水深を深めるために海底の土砂を掘削すると共に、その土砂を使い、埋め立てをして島の土地を広くしていくことにした。クロコダイル鰐がビーチからいなくなったのもこの頃で、土地開発、掘削、埋め立ての騒音で鰐が逃げて行ったとも言われている。フィッシャーはビスケイン湾でレガッタをし、冬の行事として北から客を集めることにした。ブル・アイランドと呼ばれていた島は、1915年1月にベル・アイランド(マイアミ市からベネチアン・コーズウェイで一番東側)と名前を改め、レガッタのためのスタンドが作られ、第一回レガッタが行われた。フラミンゴ・ホテルも後に建設され、リゾートとしてのマイアミビーチが徐々に出来上がって行った。

マイミビーチ市の誕生
1915年3月26日、島の不動産会社三社が集まり、三社合意のもとに「オーシャンビーチ市」が誕生した。 J.N.ルマス(弟の方)が初代市長に選ばれた。市長として一番にしたことは、海と平行している道を「コリンズ・アベニュー」と改めたこと。また、11月には、自分の持ち物だった15ストリートから南の大西洋側のビーチを市に4万ドルで売り、市営公園にした。(数年後、安すぎたとして、市に追加分の請求をしたが、拒否された。)
フラミンゴ・ホテルが出来、裕福な避寒客が増えてくるにつれてフィッシャーは高級ショッピング街の必要性を考え、リンカーンロードと名付けた道の両側に椰子の木を植え、ショッピング街の下準備をした。また、リンカーンロードの北、ジェイムス・アベニューにガラス張りのテニスコートも建設、コリンズのカジノを買い取りローマン・プールを開設した。一方、ルマス兄弟は埋め立てにお金がかかり、土地開発に遅れをとっていたので、フィッシャーにサウスビーチの西半分を売るはめになった。1916年から17年にかけて、マイアミとマイアミビーチを結ぶコーズウェイの建設が始まった。1920年に完成したコーズウェイは(後にマッカーサー・コーズウェイと改名された)港への海路の水深を深くするために海底の土砂を掘削し、その土砂を使って埋め立てされて出来たが、コーズウェイの途中に出来たスター・アイランドはフィッシャーの会社が埋め立てた人口の島の第一号だった。
マイアミビーチの開発は、1917年の4月から約1年半、第一次世界大戦のために一時停止したが、戦後の発展は目覚しかった。

日本人2人がマイアミビーチの緑化に携わる
1916年、フィッシャーが自分の邸宅をマイアミビーチに建設するに当たって、庭師の広告を出したところ、日本人二人が応募してきた。須藤幸太郎と田代重二だった。二人は神奈川県足柄郡出身で同郷。田代氏は1899年に渡米、須藤氏は1年後に渡米した。10数年カリフォルニアで仕事をしていたが、1916年からフィッシャーの庭師として雇われ、フラミンゴホテルが建ち始めた頃からフィッシャーの会社、マイアミビーチベイショア社の造園師となり、ホテルの庭造りから街路樹まで手掛けた。フィッシャーが埋め立てに使ったのは砂で、緑化作業は容易でなかったことは想像がつく。1930年代後半からは二人で独立し、植木屋、造園を主に手掛けた。1930年代後半と言えば不況時代だったが、マイアミビーチ市の路傍に無料で草花を植え、市の美化を図った。
田代氏は1954年に死去。須藤氏は1953年に日本に帰国したが、日本の変わり様に幻滅を感じ、半年で再度マイアミビーチに戻り、市民権をとり、米国で骨を埋めている。須藤氏は在命中日米親善に非常な貢献をしたとして、日米両政府から感謝状をもらっている。

・2014年当時、マイアミ総領事の長嶋伸治氏が記したものを紹介いたします。(田代氏の子孫はいまでもマイアミビーチに居住。

ジャーナリスト、ノンフィクションライター川井龍介氏が記した「マイアミビーチ誕生に貢献した日本人」を紹介いたします。

人口の島、次々に生まれる
世界で一番長い木橋、コリンズ・ブリッジは10年も経たない1920年にビスケイン湾改良協会が買い、人口の島を数珠繋ぎに造り、その島々をベニス風の橋で繋ぐ企画を立てた。1921年に工事を始め、26年にはマイアミ側にビスケイン・アイランドサンマルコ・アイランドが生まれ、サンマリノ・アイランドディリド・アイランドがマイアミビーチ側に完成した。人口の島や、海、湾に面した土地に北東部の実業家、裕福な人達が邸宅を競って建て、1928年コリンズが死去する頃までには、ポロクラブも出来、フィッシャーが埋め立てて作ったラゴース・ゴルフコースも出来た。
(ラゴースはNatinal Geographic誌の編集長をしてたフィッシャーの友人。偏見がひどいので有名だった人。)

1930年代のマイアミビーチ、マフィアで悪名高いアル・カポネもマイアミビーチへ
コリンズが死んだのは1928年だが、その年の暮に悪名高いアル・カポネがマイアミビーチのパーム・アイランドに居を構えた。1929年の不況に加え、連邦政府の禁酒法、ギャンブル、売春取締法が成立し、マフィアがマイアミビーチにはびこった。1939年フラミンゴホテルに休暇で来たFBIのチーフ、J・エドガー・フーパーは、マイアミ近辺の犯罪、汚職について批判し、FBIのエージェントがいずれ調べることになるだろうと述べた。これに対して「犯罪がはびこるのは、言わなくても分かっている。批判する代わりに、どうしたらいいのか教えてくれれば良いのに。」とマイアミビーチの市長ジョン・レビが答えたほどだった。

人種差別
コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチとルマスのマイアミビーチ
車も1910年には184人に1台の割合だったのが、30年代になると5人に1台となり、マイアミビーチに避寒に来るのは裕福な人の特権ではなくなった。リンカーン・ロードを境目に南と北の違いは、サウスビーチを持っていたルマス兄弟と17ストリートから北の地域を持っていたフィッシャー、コリンズのマイアミビーチ開発に対する観念の違いから来た。フィッシャーとコリンズは、第二のパームビーチとしてのマイアミビーチを考えていたのに対して、ルマスは裕福な人達の避寒地としてではなく、質素な住宅地、一般受けするホテルを考えていた。40年代以前のマイアミビーチは人種差別がひどく、黒人がマイアミビーチに住むことは禁止されていた。土地売買の契約書に「白人のみ」と書いてあるくらいだった。ユダヤ人に対する差別偏見は、コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチで顕著だった。「ユダヤ人お断り」のサインもあるくらいだったが、サウスビーチ(リンカーンロードから南)ではさほどの差別もなく、ジョーズ・ストーン・クラブを開店したワイズ家族も20年代からサウスビーチに家を持っていた。40年代には、マイアミビーチの5分の1だったユダヤ人の人口も1947年には半分になっていた。それでも「Gentiles only」つまり、「ユダヤ人お断り」のサインが禁止になったのは1949年のことだったが、フィッシャーの死後、ホテルの数々を買ったのはユダヤ人だったのは皮肉と言えば皮肉な話である。

カール・フィッシャーの大事業
車販売に執着、インディアナポリスでレースを始めた男フィッシャーは車の販売がメインだったことから「どうしたら車が売れるか」を終始考えていた。マイアミビーチに来る前には、ヘッドライトがあれば夜間でも運転できるとヘッドライトを発明し、製造、販売した。そして、その会社を売ったお金でマイアミビーチの土地を買収、開発につぎ込んだ。また、車に興味を持たせるためにインディアナポリスにモータースピードウェイを建設、レースを始めた。1911年にはスピードウェイをレンガ造りにし、インディアナ500を始めた。マイアミビーチに手をつけた後も、大陸横断道路があればもっと車が売れると「コースト・ツー・コースト・ロック・ハイウェイ」プロジェクトとして自分でも1100万ドルをつぎ込む覚悟で資金集めを始め、グッドイヤーのサイバリングなどの支持を受けた。ヘンリー・フォードにも投資を頼んだが、フォードは民間のお金で道路建設をすることに反対し、最後まで寄付を拒んだ。フィッシャーは「リンカーン・ハイウェイ協会」の名のもとに道路建設をし、1915年に一部未完成の部分を残して開通させた。完成したのはそれから15年後。ルートは今のルート80とほとんど同じである。東西横断だけでなく、自分が投資したマイアミビーチに人を集めるには、南北を走る道路も必要と考えたのは当然のこと。1914年までにには、シカゴ-マイアミ間のデキシー・ハイウェイの構想がまとまっていたようだが、ハイウェイのルート争いが各州、各町であり、それから10年以上かかって建設が始まることになる。

ジョーズ・ストーンクラブ
まかない食で始まったストーンクラブ

ハンガリー生まれのジョー・ワイズは、ニューヨークのレストランで働いていたが、喘息持ちで、医者に暖かい所で暮らすように薦められ、1913年マイアミビーチへやって来た。カジノのランチ・スタンドで働き、カジノの近くに住んだ。マイアミビーチのユダヤ人住民第一号だった。貯金して貯めたお金で、カジノの向かいにレストランを開けた。
ストーンクラブをメニューに入れたのは開店してから数年後。水族館の仕事で来たハーバード大学の魚類学者が、サウスビーチにたくさんいる蟹のハサミは殻が固くてあまり美味しくないが、食べられるものだと教えてくれた。
ジョーは、従食には使えるとそのハサミを茹でて冷やして従業員に食べさせた。その美味しさは抜群で、お客に出すことにしたのがジョーズのストーンクラブの始まりである。

アール・デコ
数年で埋め立てに埋め立てを重ねて広くなった無人島が、1915年にマイアミビーチ市として誕生した。人工島も増え、邸宅が建ち、金持ちの避寒地として栄えていた30年代までには、マイアミビーチを結ぶ自動車道路もマッカーサー・コーズウェイ、ベニシアン・コーズウェイ、ジュリア・タトル・コーズウェイ、それに79ストリート、ノースベイを通り、マイアミビーチの71ストリートを結ぶコーズウェイも完成していた。リンカーンロードの南には、ジグザグ・モダンから後にアール・デコと呼ばれるようになった「デプレッション・モダン・スタイル」の建物が次々に建てられた。 
ほとんどが避寒用のアパートやホテルで、内装もシンプルで実用を重んじたものだった。レンタルは、平均一日5ドルから7ドルで一般受けした。不況風が吹き始めていた1936年と37年に、ホテルが188軒、アパートが618軒建設された。大変な建設ブームだったと言える。当時は、アール・デコとしては知られていなかったこれらの建物は、やはりあまり知られていなかったモダン派の設計家たちが設計したのだった。ヘンリー・ハウザー、ロイ・フランシス、ムレイ・ディクソンがデザインした建物は、「客船をそのまま建物にしたようだ。」と馬鹿にされたり、「貧しい地域に相応しく、極端に節約した建物」とも言われた。

戦争とマイアミビーチ
第二次世界大戦中は、ガソリン欠乏もあり避寒客はほとんど無かったが、空軍のトレーニング・センターとなり、サウスビーチのアパート、ホテルのほとんどが訓練生の宿舎として使われ、高級ホテルは司令官、将校の宿舎に、部屋数の多いホテルは病院として使われた。政府が支払った額は、1日1部屋20セント程度だった。空軍の訓練で訪れていた人の中には、クラーク・ゲーブルもいた。1944年の夏過ぎまでには、アフリカやヨーロッパの戦争も終わり、マイアミビーチのホテルやアパートは徐々に民間に返還され、不動産の売買も盛んになり始めた。
マイアミビーチが観光地、避寒地としてだけでなく、住むところとして栄え始めたのは戦後。戦時中マイアミやマイアミビーチに駐屯していた人達が家族を連れて戻ってきたのだった。復員兵援護法をフルに活用し、マイアミ、マイアミビーチに家を買ったのである。

1950年代から
避寒地として長期滞在する場所としてだけでなく、観光リゾート地として短期滞在する人も増え、ホテルの建設がさらに進んだ。リンカーンロードより北にあった豪邸のほとんどは50年代に高層ホテルやアパートに変わった。
ファイヤーストンの邸宅もその一つで、フォンテンブロー・ホテルが建てられた。カール・フィッシャーが考えていた第二のパームビーチは、完全に変貌していった。高層ホテルに投資をしたのは、ニューヨークやシカゴの「ヌーボーリッチ」(産業革命でお金持ちになった人達)で、その多くがユダヤ系だったため、マイアミビーチにますますユダヤ系の人が多くなった。フォンテンブローは1954年に、イーデンロックは55年に、そして60年代にはコリンズ・アベニューに立ち並ぶホテルが次々に建てられた。

テレビショーとマイアミビーチ
これら大きなホテルは、1950年代、60年代にはフランク・シナトラ、ディーン・マーチンをはじめ多くのエンターティナー達のショーで賑わった。そしてこれらのホテルは競って「アメリカン・プラン」を売った。当時のアメリカンプランとは、1日2食、又は3食込みでホテルの宿泊費をとり、ショーも無料というものだった。ホテル内で全てお金を使ってもらおうというもので、ホテルにブティークが出来たのもこの頃のこと。

ビートルズのアメリカ・デビューもマイアミビーチで
ラジオ・ショーやテレビ・ショーがマイアミビーチから放映され始めたのも1950年代から。全国中継のショーを始めたのは、アーサー・ゴットフリーで1953年のこと。テレビのケーブルからカメラ、脚本家、スタッフ、俳優全てをニューヨークから連れて来て始まったショーは約10年続いた。 実際にはバルハーバー市のケネルワース・ホテルからの放映だったが、マイアミビーチ、マイアミの宣伝に多いに貢献した。雪に閉じ込められていた人達が客間で真冬に海に飛び込に泳ぐ姿を目にしたのは初めてだった。夏はニューヨークから、冬はマイアミビーチから放映するショーが急増した。1960年代には、エド・サリバン・ショー、ジャック・パーの「ツナイト」、ジャッキー・グリーソンが続いた。ビートルズがアメリカで初めてテレビに現れたエド・サリバン・ショーは、マイアミビーチのドービル・ホテルから放映された。ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演したのは、1964年の2月のこと。マイアミ、マイアミビーチの警官は、ビートルズ熱で悩まされた。人気があるとは聞いていたが、ティーンの騒ぎ方は普通ではなく、ファンの整理に大変だった。ビートルズはエド・サリバン・ショーに出てすぐに移動する予定だったが、マイアミビーチが気に入り、4日の予定を1週間に延ばしたから大変。しかもグループは、ドービルホテルの部屋にこもることなく、出歩いたという。

モハメッド・アリとマイアミビーチ
ビートルズとモハメッド・アリが出会ったのもマイアミビーチ。モハメッド・アリがまだキャシアス・クレイとして知られていたときのことだった。ケンタッキー出身のボクサーは、オリンピックでゴールドメダルをとった後、プロに転身するために、マイアミビーチにいたトレーナー、アンジェロ・ダンディーの5ストリートジムで訓練を受けていた。ブラック・モスラム教に改宗して名前を変えての初めてのボクシングマッチもマイアミビーチ・コンベンションセンターだった。

ラスベガスの誕生で、マイアミビーチの観光客が変貌
1950年代、60年代に多かった「サン・アンド・ファン」を追ってきた米国北東部からの観光客は、70年代になって激減した。マイアミビーチの競争相手が増えてきたからだ。ラスベガスもその一つ。カジノから儲けがあるので、ショーも豪華で、ホテル代も食事も安いラスベガスにお客を取られてしまった。アメリカ人の代わりに、中南米やヨーロッパからの観光客が増えたが、中南米の客は二度、三度と来るうちに、ホテルではなく、自分のコンドミニアムを持つようになり、コンドミニアムに転身するホテルが多くなったのは70年代の後半。
サウスビーチのアールデコ地域は、高齢者で一杯で、観光客は皆無であった。北東部や中西部からの引退した人達でしかもどちらかというと年給暮らしの人が多く、夏になっても北に帰れず、年中サウスビーチに住む人達だった。

マイアミビーチの危機
マイアミビーチが観光地として落ちるところまで落ちたのではと思わせる時期は、1980年のマリエル・ボート・リフト(キューバから犯罪者も含め10万人近くが1週間という短期間に南フロリダに流れ込んで来た)から数年間。政府がサウスビーチのアパート、ホテルに難民を収容し、犯罪が急増したために、観光客が寄り付かなくなったためだった。

マイアミビーチの若返り
平均年齢は65歳以上とまで言われたくらい高齢者が多かったマイアミビーチで、1980年代中ごろからアパートの家賃もジュニア・ディスカウントを設けたりして、若者をビーチにひきつける努力をした。また、廃れたサウスビーチを活性化するために、種々のプロジェクトを打ち出した。古いアールデコの建物も犠牲になるかに見えたが、アールデコの建物が集中しているオーシャンドライブを史跡として残す運動が起こった。
史跡として認められ、保護されるようになったのは1980年代の後半だった。アールデコ地域に最初に投資したのは、ヨーロッパ、特にドイツ系の会社や個人だった。外装はそのままか、強調し、内装を変え、ホテルやレストランとしてビジネスを始めた。サウスビーチの不動産が上がるにつれ、高齢者は家賃が払えきれず、サウスビーチから姿を消した。観光地として栄え、ナイトクラブやブティークが多くなったのは、つい最近のこと。今では「見せたい」「見られたい」人で一杯の感がある。 

有名人による投資、経営も目立つ
高級ショッピング街として出来たリンカーンロードは、バルハーバーや他の新しいショッピングセンターに客を取られ、廃れた。その廃れたリンカーンロードを復活させたのは、数人の慈善家だった。その人達はリンカーンロードの安いビルを10数軒買い、サウス・フロリダ・アートセンターに寄付し、ギャラリーにした。リンカーンロードに多くあるギャラリーは、若い芸術家に安くギャラリーを貸すためにある。ニューヨークのソーホーも昔はこのようなギャラリーが多くあったが、芸術家が集まるところには、カフェも出来、人が集まる。人が集まるところには、店も出来、家賃がどんどん上がって行った。その結果、若いまだ芽が出ない芸術家たちのためのギャラリーは居られなくなり、出て行った。 ソーホーの二の舞にならないように、ビルを買って、家賃が上がる恐れがないようにして寄付したのだった。ギャラリーがあれば芸術家が集まり。カフェも出来、店も戻って来るだろうということで、マイアミビーチ市の支持も多いにあり、リンカーンロードは今ではギャラリー、レストラン、クラブ、店が並び、人出もサウスビーチ、アールデコ地域に負けないくらいになった。

ヒスパニックとマイアミビーチ
キューバのカストロ革命以前には、キューバから亡命してきた元大統領が二人居たくらいだった。カストロ革命でキューバを逃れてきたのは、カトリック系のヒスパニックばかりでなく、ユダヤ系の人達もいた。約6千人といわれているユダヤ系の難民の7割は、すでにユダヤ教の生活習慣が自然であったサウスビーチに、3割はノーマンディ・アイル地域に定着した。 キューバを逃れてきたユダヤ系の人達の多くは、30年代にヨーロッパを逃れてキューバに渡った人達だったが、ヒスパニックの人が最多数を占めるマイアミ・デイド郡内でも、マイアミビーチは比較的にヒスパニックの影響を受けていなかったといえる。1990年代中ごろになって、初めてヒスパニックの市会議員が選出されたほどだが、ヒスパニックの人口も徐々に増え、2000年には市会議員6人の内、3人はヒスパニックになるだろうと言われていた。実際に2008年現在、市長、シティマネージャーはヒスパニックである。